感覚と触覚

日常

モノを感じるとき 見たものが映像か 実物かで 感じ方が違う。
映像は美しさとか 大きな山や海などでも形がはっきりわかり
大きくも小さくも見える。
実物の場合は 目の前に大きさが迫ったり 小さなものはしゃがんでみたり
身体を動かしたりしてみる。
感覚は 見えないものまで 中を想像したり 心の動きを感じたりする。
また触覚は 触ったときのふさふさや ヌルヌルなど 実際に触って感じるものだ。

最近科学技術が発達して 特殊なメガネをかけることで 
すぐそばに犬や猫がいて 実際にはいないのに えさを与えたり
なでたり 傍によって来るものをかわいがったりすることが出来るという。
家に犬や猫などを飼うことが出来ない人の 一瞬の楽しみだそうだが
どうしても喜べないように思う。
犬や 猫の本当の姿もないのに 空想では可愛がれないように思う。
実際になでたり 毛を触ったりすることで 
信頼や かわいがり方が かかわると思うからだ。
見て触れるというのは そういうことだと思うのだが。

人と人もそうで 触れたり触ったりして 愛も深まると思うが
メガネでそういう感覚を味わうのは無理だろう。
科学やAIの進歩に 追いつけないから言うわけではないが
思いや 感覚が研ぎ澄まされてこそ 感情の起伏が起こり
感情が豊かになると思う。
                                (2024・9・16)

最近 自分の絵を描き始めているが 今までより感覚が
研ぎ澄まされている感じがある。
これから描く絵の方向が 自然に決まってきたからだと思う。
ずっと求めていたマチエールや 描きたいものが 今頃やっと決まってきたようだ。
何十年も悩んで やっていることに なんとなく納得がいかなくて 
どうしても これが自分の求めていたものだという自信がなく 過ごしてきた。
見る方向が 自分から離れていく感覚は 受け入れがたいものだった。
それで このところ絵を描いている手が 止まっていた。
しかし 少し解放されたようで 好きに描こうという事を続けながら
時間を経過していた。
描きこみも足りなかったのは事実だが 形が見えてくるようになって 
これだという感覚が 解かった。
触覚も同時に 感じる時間だった。
これでいいと納得しながら 仕事を進めると 楽しいし 興奮するし 手が止まらず
時間の経過も忘れるくらいだ。
ただ 睡眠時間や 体力のことを考えていないと 他の仕事ができなくなるので
セーブしながら 朝早く起きて 頑張ることにしている。
これを発表できることが出来るように しばらく頑張ってみる。

                                 2025・9・16

                                    

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