墓参

日常

彼岸の日に

今日は 秋分の日 秋彼岸の中日だ。
秋分の日は 祖先をうやまい なくなった人々をしのぶ日だそうだ。
ちなみに 春分の日は 自然をたたえ 生物をいつくしむ日という。
おはぎを作り 母の墓参りと 友人の墓参りにいった。

墓参りは しばらくぶりで お供えの花とお線香を準備していった。
お参りし 帰ろうと車に乗っていたら 隣の車から降りた人に
どこかで会ったような気がする。


そうだ この人たちは 母の親戚の人かもしれないと気づいた。
何年か前に 母を見送るころ 交流があったが それ以来の人たちだ。
彼らも 母のお墓参りに来たのだ。
車から そっと声をかけたら まちがいなく母の親せきの人だった。
1分違っていたら そして 気がつかなければ この偶然はない。
なんという偶然か。母が 会わせてくれたのかと 不思議な気持ちになった。

友人の墓でも 花を飾り 線香をたいてお参りしようとすると
声をかけられた。
友人の弟さんだった。10年以上も会っていないし 
弟さんとは近い関係ではなかったので 全然知らない人だと思った。
毎年 お参りに来ていることを告げ お世話になったことを話した。
弟さんも ずっと知らなかったという。


今日は不思議な日だ。
亡くなった人が 私たちに 会わせてくれているんだと思う。
何気ないひと時だが 強烈だ。
人と人が 会うという偶然は すれ違うことの多い世の中で
滅多にあることではないように思う。不思議な日なのだ。

こういうことが 静かに暮らしている自分にとって
うれしいことでもあり 驚くことでもある。
何回も 不思議にめぐりあい 命に響き 生き方に影響していく。
体験の中で この日一日が 生きていくのだ。
なにか めぐりあわせとでもいうか 今日の日にふさわしい出来事であった。
                                  (2023・9・23)


墓参
お彼岸は 祖先の墓参りだ。
この辺は お墓がある寺や 墓地が密集しており
車が渋滞している。
しばらく行っていなかった母のお墓に 花を捧げて お参りした。
離れて暮らしていた母と 最後に看病できたことや
母の知らなかった過去のことなども 理解できてよかったこと
それに自分を生んでもらったこと 色んな思い出もできたことなど
感謝していたので お参りできてよかった。
お墓のある所は 山の上に近いので 遠くに都心が見渡せるし
いい場所で 母も喜んでいるだろう。

たまに 彼岸やお盆の季節に お墓参りできると
心が ほっこりする感じがする。
いい思い出も 話し合ったり 哀しいことも思い出したり
これから先のことを幸せを祈ったりできるし 語り合うこともできるのだ。
実際に会うことはできなくても 思い出の中で生き続けてくれる人と
心の正直な部分を話せるのは 普通ではないけれど いい世界が広がるようだ。
亡くなった人が すでに別の世界にいて 見守っていてくれていると思ったり
お願いするわけではないが どうして行ったらいいかを聞いてもらったり
ただ傍にいたいと思ったり 人それぞれだが
そういう場所があるのはいいことだ。
お墓にしないで 樹木葬や 風葬なども多くなったり
お墓のアパートなどになったりしている世の中だが
それぞれの家の事情もあり 新しい考えも出てくるだろう。
だが 祖先のことや 近しい人のことは 
何かの形で 自分のために残した方が いいのだろうと思う。

安らぎを求める 心のよりどころになるところを 多く持ちたいものだ。
                                   (2024・9・23)

墓参に行かない日
今年は 車の混雑を避けるため 墓参は別の日のしようと思う。
お彼岸には 家で静かに過ごし 祖先を偲ぶことにした。
おはぎは 小豆を買い もち米とお米を混ぜ 手作りした。
小豆は 2時間ほど ゆっくり煮て 甘く柔らかく煮えた。
だんだん おはぎを作ることに慣れて すぐにでも作れるようになった。
神棚にお供えし 家族でお昼に食べておいしかった。
墓参は 今日でなくても 良いと思った。
                                   2025・9・25

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